ここの春は極端に短い。
そもそも、春なんて季節など無いに等しい。
かといって夏と呼べるほどのものも無いから、それは春と呼ぶしかしかないのだけれど。
雪が融け、陽射しが強く、それなりに暖かければ須らく春だ。
そんな場所だから、春は暖かい。とても。
というか暑い。
歩くたびに泥が跳ねる、雪解けの水で湿った土の上を二人と一匹が歩いていた。
陽射しは穏やかで雲ひとつ無い。
森の中にぽっかりと開けた陽だまりの草原の中を、騒がしく進む。
「ニコー! ニコー!」「ねこ、ねこ」
「もー! ニコっていう名前があるのー! ニコー!」
「ねこー」
「もーっ!」
”ニコ、という名の猫を探してほしい”
それがこの少女の願いだ。
私は自分でも気まぐれだとわかっている。
どんなに大金を積まれても、気乗りしない時はやらない。
どんなに矮小な願いでも、気が向いたらやる。
私が引き受ける願いに、規模の大小、善悪、対価の量は関係ない。
ただ私の意志(というか気分、だ)があるかどうか、それだけだ。
しかし、一度叶えると決めた願いは必ず完遂する。
それが私の信念だ。
細く長く、つまらない人生を少しでも楽しむためのタスク。
仕事。負荷と言ってもいい。
とにかく、私は一度叶えると決めた願いは必ず叶える。
――たとえ。
魔法が使えなかったとしても。
さて、私は探偵ではない。
もっと言えば動物を飼えるようなご身分でもない。
そもそも、動物など飼いたくもない。
『クァ〜ッ……こうもぽかぽか陽気だと眠たくてかないませんな』
右肩にたてた爪が、欠伸をするたびに少し食い込んで痛い。
だらりと開けた嘴の中に、苦いだけの草を放り込んでやると、私は前を行く少女に目を向ける。
……あ、むせてる。涙目だ。
気持ち悪い声出しやがって……この猛禽が。
日々人が食べていくのにも必死なこの地にあって、動物などの食い扶持を賄ってやれるなんてどこのお嬢様かと思ったものだが、聞けばその辺を気ままにうろつく猫に名前を付け、餌(と言っているがおおよそ碌なものではないだろう)をやっているだけのことらしい。
木の枝を草刈鎌代わりにかわいらしく振り回しながら進む少女を見ながら、得心する。
……とてもお嬢様には見えないな。
逆の手にもったぬいぐるみが、つぎはぎの顔をこちらに見せて、楽しげに揺れている。
「ニコはね、わたしのおとうとなの!」
『カカカ! 四本脚で歩くとは、こりゃまたずいぶんと奇抜な弟さんですな!』
カラスのくせに、人間を小馬鹿にしくさった目をして器用にケタケタと嘴を鳴らして笑っている。
少女の方はよっぽど大人で、そんな声には耳も貸さず一心不乱に猫を探し続けていた。
ただ、そんな沼の底には居ないと思うぞ。
というか居て欲しいのか?
『カカカ! 猫のどざえもんとはまた趣味が悪いですな!』
腹が立ったので、ケタケタと笑い続けている嘴の中に砂利を一掴み放り込んでやったら目を白黒させて咳き込んでいた。
学習能力がないのかこいつは。
私が少女の願いを叶えると決めたのは、一つには罪滅ぼしのため(怪我をさせてしまったままでは何だかむず痒い)、もう一つは少女の「力」を疑ったからだ。
少女が来てから私は力を失った。
山一つを容易く焼き払うことができた業火も、今は指先に灯すことすらできない。
私の持つ奇跡の力。
私を魔女たらしめる奇跡の力を奪った少女に興味を持った。
彼女は、もしかしたら私が奇跡を起こす力を抑制しているのかもしれない。
少し空想的で甘美な想像、いや妄想と言うべきかもしれない、が許されるのならば。
それは、私が奇跡の力など行使しなくていいように。
普通の娘と何ら変わらない私であってもいいように。
私に、人並みの幸福を。
私に平穏をもたらしてくれるものとして例えば神から遣わされた者ではないだろうか。
魔女がいるのだ、神がいたっておかしくはない。
私自身の力が証明している。
この世界に奇跡はあるのだと。
今となっては、半ば懇願に近いものがあったことは否定しない。
人並みの幸福。
即物的な言い方をすれば、世界と同じく流れる時間を。
それは死と言い換えてもいい。
それを与えてくれる力かもしれない。
そのためにある力であって欲しい。
少女は、大きな鎌の代わりに虚ろな目をしたぬいぐるみを提げた、可愛らしくも恐ろしい、死神だ。
猫を見つけた時、刑は執行され、私は円環から解き放たれる。
そんな空想を抱いていたのだ。
あの頃は、自分の生に疲れを感じられるほど、まだ若かった。