腐葉土の姫 (4)

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 何かが動く気配がした。
 恐る恐る目を開くが、焚き火はまだ消えておらず、周囲は夜の闇に包まれている。気配は背後から……? 違う、取り囲まれている。野犬の類、でもなさそうだが……。ハリスは鉈を握りしめ、息を殺して身構えた。
 静寂はあっけなく崩れた。動いていたのは他でもない、森の樹々である。ツタ状の植物が樹を揺らしつつ、信じがたい速度で複雑に絡み合いながら動きまわっている。樹々が揺れるたびに葉が擦れあって音を立てる。ハリスは驚きのあまり身動きを取ることもできない。火を絶やしてはならない、と気づき、必死で樹々が起こす風から焚き火を守ろうとするが、もう遅い。一筋の煙を残して、後は青白い暗闇となる。
 何かが来る。直感的にそう思った。なま暖かい風が湿度を増した。同時に、土の匂いが一段と強くなった。樹々に感情があるとすれば、これは「歓喜」であろうか。丸一日、不気味なほど静まりかえっていた森が、たがが外れたかのように狂おしく踊っていた。揺れる樹々の隙間からは月光が差し込む。淡い紫色の小さな花が咲いた。黒い地面が瞬く間に緑の絨毯になった。一際大きな風が吹いた後、気がつけば「それ」はいた。
 これが森の主なのだろう。漠然とそう思った。人間のような形をしていて、手でツタを掴んでいるように見える。木の枝に腰掛けて、こちらを見ているのだろうか。見たこともない強い妖気と、むせ返るような土の匂い。一瞬後、ツタが動き出し、「それ」を地面に降ろした。そして静寂。
 ハリスは、自然と涙がこぼれるのを感じていた。自分に向かって歩いてくる、「それ」の姿を瞼に焼き付けようとすら思った。だが、その姿はモザイクのようにぼやけて像を結んでくれない。
「……?」
 暗さのせいでも、涙のせいでもない。「それ」の形は分かる。小柄な人間のようだ。が、色が見えない。いや、色が一定してくれない。一瞬、緑色に見えた箇所が、次の瞬間には茶色に変わっている。これは虚像か……だが、実在感は圧倒的にある。混乱するハリスの眼前まで、「それ」はやってきた。強烈な土の匂いに目が眩みそうになる。唐突に、ハリスの体に「それ」の手が触れた。服を通して熱が伝わってくる。だが、最早視界を塞がんばかりの距離にあるのに、「それ」は何色をも示してはくれなかった。目も口も鼻もない、「それ」の表情を伺い知ることはできなかった。
「俺は何が悲しいのだ。何が苦しいのだ」
 混乱する意識の中、自分への問いかけが繰り返された。

 目を覚ますと、何事もなかったかのように森は静寂に包まれていた。
 昨日の出来事は夢だったのか……。だが、それにしては記憶は余りにも鮮明である。それに……どうやら、気を失っている間にハリスは森の外縁部まで運ばれていたらしい。周囲から感じる妖気も随分と弱くなっている。
 自分を運んだとすれば誰が……思い当たるのはあの人の形をした何者か以外にない。だが何のために?
 無事に森を抜けられたことへの安堵を覚えつつも、ハリスの心は次々に沸いてくる疑問で占められていった。


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