無限螺旋 - 記憶の階段(1)

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 予想していたとはいえ、この濃密な樹木の迷宮を進む道は険しかった。さっきまでいた荒野が夢だったのではないかと思えるほどの湿度。まるで無数の水滴の中を突き進むかのように、空気が肌にじっとりと粘ついてくる。地面には巨木の根が狂った蛇のようにのたうち、あちこちの枝からはツタが垂れ下がる。それが視界をよりいっそう狭くしていた。
 足をくじかぬよう、枝先で肌を傷つけぬよう、注意して進んでいく。
 慌ててはならない。ここで体力を消耗させれば魔女の思う壺だ。魔女はなぜかこの森を出たがらない。かといって、森そのものを切り開いたり、焼き払ったりすることは不可能だ。あまりに広すぎるし、どうせ魔女の妨害に遭うだろう。それに、この森自体は恐れられると共に、庶民たちからは「人の世と神の世をつなぐ土地」として崇められてもいる。だから、魔女を狩るにはこちらから森に足を踏み入れるより他ない。時に命知らずの冒険者や、名誉を欲する若い騎士が魔女に挑んで森に入り――そして例外なく消息を絶っていた。

 ……あの時の俺にも、そんな気持ちの昂ぶりがあったのだろうか。

 俺はこの任務に、自分から志願した。それは幼い頃生き別れた兄を救うためだ。子供の頃、俺たち兄弟は魔の森に迷い込み……俺は生還し、兄は帰らなかった。近くの村人が、森の入り口で泣いている俺を見つけたとき……俺は兄に関する記憶の一切を失っていた。
 そのとき何があったのか、俺自身にも分からない。なぜ魔の森に足を踏み入れたのか、なぜ俺だけが助かり、兄は姿を消してしまったのか。兄はお前を可愛がっていたから、きっと魔女の手からお前をかばってくれたのだろう。両親はそう言って涙を流していた。
 家には、兄と俺が同じ時間を過ごしたことを示すたくさんのものが残されていた。ナイフで削りだした木製の剣。お揃いのカップ。木炭で書いた落書き。しかし、そのどれを見ても、兄の記憶は戻らなかった。俺に兄がいた、その事実の方が魔女の作り出した幻影ではないのか? そんな考えにすら捕らわれたこともある。
 だが結局、魔女は俺と兄を引き裂くことに失敗した。兄が俺に残してくれた魔よけの短剣。森から戻ってきた俺は、それをずっと握っていたという。それは兄が大切にしていたもので、出かけるときにはいつも身に付けていたと両親から聞かされた。しかし俺にはそんな説明は必要なかった。少し古びたこの短剣を見るとき、俺の心の中に兄の存在が蘇るように感じられるのだ。顔も分からない、一緒に何をしていたのかも思い出せない。ただ、兄と日々を過ごしていたときの感情が、かすかに――本当にかすかに、沸き起こってくる。それだけで俺は兄の存在を信じることができる。兄は確かに、俺にとってかけがえのない存在だったのだと。

 魔女は、俺の中から兄を奪い去ろうとして、完全には成し遂げられなかった。

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