おそらく、三刻の時のうちに、川辺までたどり着ければ生き延びることが出来る。だが、間に合わなければ死ぬだけだ。生と死は敗走する一群の兵士の目の前で揺れている。運命とはそういうものだ、と。
 一群の兵士を率いる、一際目立ったリーダーと思しき人物、その人こそが、いまや、全土を戦乱に招きいれた渦中の人、アルト・アルヴァーンであった。アルヴァーンは王家の姓、アルトはその嫡子の名。だが、彼はいまや、その自国において追われる身であった。
 援軍の船はテーベの岸辺で待つ。隠密のため、目印となる大樹の影にかくれて、斥候も出さぬ。生き延びれば再起もあろう、彼が正統なる王座を復奪することも可能となろう。だが、約束の時はもはや満ちつつある。かの船は、定刻になれば出立する。そういう約束であったのだ。戦禍が全土に広まる前に、反逆の汚名着せられた彼の一族、そこには、彼の妻や子供も、連携に継ぐ連携によって、未だ彼の名声と人望に援助を惜しまぬ沿岸の諸国まで逃すことが出来るのだ。
 なんとしても間に合わねばならぬ。生きてこの屈辱を晴らす日まで死ぬわけにはいかぬ。政治と簒奪にのみ長け、この茶番とも言える戦いを仕掛けた黒幕を殺し再び王の座につくまでは死ぬわけにはいかぬ。
 だが、雨はますます強くなり、雲は厚く鬱蒼とした森を囲っている。追従する兵士は八名。その体は重く鎧によって、かろうじて体勢を保っているほど疲労を抱え、ある者は、ようやく乾いた血で傷口を止めている。雨はその髪を重く濡らし、その影から眼光だけが鋭く光を放っている。
 いまや武具が取り除かれ軽装となった馬のひずめだけが、コツコツコツと、森の中に響いている。だがその音もぬかるみが酷くなるにつれて、消え失せて行く。まるで時が止まったように、自分たちが一枚の絵の中に閉じ込められて行くかのような錯覚に苦しめられる。死ぬ前とはこういうものなのだろうか? 兵士の一人、まだうら若く、頬の赤さが残る齢十六の少年は思う。その名はアルヴィ、王家に最も古くから仕えるクスター一族の末弟にして、若くして直属の近衛に任ぜられ、その就任式は、清々とした高い秋晴れの日に、王城の御庭で行われた。それも、ほんの二年前のことだったはずなのに、何もかもが変わってしまった。彼の手はますます冷たくなり、空腹はますます酷くなるに連れても、ただこの風景を逃げ出して、暖かい船室へたどり着くことだけを考える。その先のことは、その先で考えればいい。王を護ることが彼の使命なのだ。
「王よ、今は何刻でありましょう。先に向かわせた兵士が未だ戻りませぬ」
 誰もがわかっている。一刻以上も前に偵察に放った馬が未だ戻らぬということは、やはり彼も敵の手に絡め取られてしまったのだろう。ということは、敵は我らの目前にも展開しつつある。不思議なほど死が近い。それなのに、その足音は全く聴こえることはないのだ。だが、緊張のあまり言わずにはいられない。
「歩みを止めるわけにはいかぬ。情勢の確認が取れぬとも、先を急ぐしかない」
 アルトは重たく言い放つ。
「王よ、私が再び偵察に行って参ります。いまや、どこに敵が潜んでいるかわかりませぬ。」
「それには及ばぬ」
 その言葉が言い終わるか終わらないかの内に、大気を唸らせる数本の矢がアルトの頬を掠めた。
「進め! 一斉に駆け抜けろ!」
 アルトはそう言い放つと手綱を大きく振り上げて疾走する。後ろで、どさりと、人間が大地に叩きつけられる音がする。振り返ってはいけない。そこにも死があるだけだ。今や暗い死の天蓋に囲まれた中で、一瞬一瞬、目の前にある一点の光へ飛び込んで行くことだけが生き延びる道なのだ。その光へ向かって駆け抜けろ!アルヴィは王の後を必死で追う。我は彼の臣下であり、臣下として生き;、臣下として死ぬ。この時代に生まれた意味を、彼もまたアルトと同じく産まれた時から制限され、若い時からそれを受け入れて来た。この道以外に、他に道はなく、ただまっすぐに王の背中を追うことが、この時代で近衛の家系と産まれた自分の運命であったのだ。
 ふいに木の影から敵の兵士の刃がきらりと光る。刃が薙ぎ払われるより早く、彼の足につけられたバックルがその顔面を強く打ち砕き、刃を持ったまま兵士は吹き飛ばされる。速く、早く、少しでも王の傍で盾となり刃となり、その生を燃やすことがわが宿命にして望みなのだ。迷うことなど、許されない。自分は最も王の傍に近い人間でありたいのだ。だが、その時、側面から突然の強い衝撃がアルヴィの頭を震わす。体が宙に浮き、目の前にはただ大きな曇天を吸い込む。死ぬのだ。暗く閉じていく景色の中で、彼は自分に言い放ち、アルヴィは意識を閉じる。「アル!」遠くで自分の名前をかすかに呼ぶ、そんな声を遠く聞いた。

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