雨はますます強くなる。土砂降りだ。その雨に混じって、赤い血が流れている。敵の追撃を追い払い、疾走する仲間を集めてみれば、もはやアルトを入れて四人しか残っていない。負傷したアルヴィを抱えて、ここまで生き延びて来れただけでも、奇跡というものだろう。馬を捨て、カムフラージュのための別の方向へ走らす。今は自らの足を断ってでも、時間を稼がねばならない。一群は身を隠すために、そして、一刻も早くアルヴィを横にして休ませるために、深く深く森へ入り、森が一層鬱蒼とし始め、断層のようなものになっている場所で腰を降ろした。ここなら、葉を茂らせた大木が雨をしのいでくれる。アルトはアルヴィをマントの上に横たえ、雨にぬれないように、さらにマントを重ねる。だが、血は留まることを知らない。もう一刻も持たないかもしれない。自分自身の体力も限界に近い。もはや、これまでなのか。
水たまりの中に、小さな羽虫が羽根をばたつかせている。水から逃れようともがけばもがくほど、ずぶ濡れになって逃れられなくなる。アルトはそれを、ぼんやりと見ていた。その水たまりに血が流れて行く。アルトはそっと羽虫に手を伸ばし、指に乗せて深い森の中へ投げ入れてやった。
「生き物が死んでいくのは悲しい? あなたはたくさんの人を殺して来たのに……」
低いはっきりとした女性の声がする。見上げると、断層の上に黒衣の女性が立っている。すらりとした長身を、黒いローブでまとっている。そして、それ以上漆黒の黒髪が滑らかな曲線を描いて地上まで垂れているのがに目を引く。どうしてこんな森深くに女が一人でいるのかわからないが、今はそんなことを気にするには、アルトはあまりに疲れすぎていた。近くに小さな村でもあるのだろう。そうだとしたら、そこで手当てが出来るかもしれない。いや、とアルトは考え直す。危険すぎる。敵はとっくに手を回しているだろう。
「悲しいさ。できれば殺したくなどなかったのだ。今日だけで十人以上殺して来た俺も、
部下の一人が死んでいくのがどうしても悲しい」
(何もすることができず、こうして見届けることしかできないのは、アルヴィはある意味、
俺が殺したのも同然なのだ)
女は言う。
「だとしたら、どうしてあなたはその人を戦いに巻き込んだの? その人は、
戦いの中で生きるには優しすぎるのに……」
アルトは声を高める。
「おまえに何がわかる? こいつの何を知っているというのだ?
アルヴィは俺のことを命をかけて護ってくれた。こいつは、俺が王子の座を追われて、
国を追われる身になっても、真っ先に俺のもとへ駆けつけて、そして、最後まで、
俺と共にいてくれる男なのだ。俺はこいつを失いたくない」
「フィンランディア国、王族近衛、第一弓隊長、アルヴィ・クスター」
王は立ち上がり
「おのれ。おまえは敵国の者か! なぜ、名を知っている! 」
と、声を張り上げる。だが、女は雨の中で濡れもせず、まばたきもせず、ただ、淡々と語り続ける。
「そしておまえは、フィンランディア、前国王、レア・アルヴァーンの子、アルト・アルヴァーン。反逆者の汚名を着て、隣国への逃走中だ」
アルトはさっと立ち上がると同時に剣を抜いて、走り寄って女の喉元に突き立てる。
「答えよ! 敵軍は今どこにいる! おまえは何処から来た。最近のカルテア軍は女子供とて戦闘に使うのか! 」
女はまるで剣など存在しないかのように視線を動かさず、アルトを見据え続ける。
「おまえたちはここが何処だかわかっていないようだ。ここは、魔の森の入り口だ。
既におまえたちは魔の森に足を踏み入れているのだ。
剣など何の役にも立たぬ。そして私は魔女。この森を統べるものだ」
アルトと兵士たちは、「魔の森」にまつわる恐ろしい伝説を思い出していた。この国に住むものなら、誰でも知っている物語だ。魔の森の一帯は周りから一段高くなった高い地層に囲まれ、入ることも難しい。そして、そこに無理やり入ることが出来た者も、記憶を失った状態で発見されると聞く。だが、その場所も、その姿も長い間、不明とされて来た。
アルトは剣を引き、膝を屈する。
「おまえが何者かは知らぬ。魔の森の噂は耳にしたことがある。だが、本当に何であるかは知らぬ。
だが、そんなことも今はどうでもいい」
アルトは深く息を吸い込む。
「頼む。この男を救ってくれ。この森も知らぬ。おまえの正体も判らぬ。
だがこの森に住んでいるというなら、手当ての術ぐらいはあるだろう。
頼む、どんな手段を使ってもいい、この男を死なせないでくれ」
長い沈黙がある。その沈黙の意味をアルトは計り兼ねる。
「一つだけ」
魔女は言う。
「一つだけ質問に答えよ」
王はうなずく。
「何でも……」
魔女は淡々と語り始める。その声には凛とした厳しさがあった。
「おまえの手は血で染まり、この大きな雨を持ってしても拭い去ることは出来ないだろう。
だが、今しがた、この森の境界から転げ落ちた黄金虫をおまえは助けてくれた。それは何故だ?
あれは、私たちにとってとても大切な者だった……」
アルトは、さきほど、血で染まった水たまりから逃がしてやった羽虫のことを思い出した。
「生き延びるために、大勢を殺した来た俺だって、
目の前で血に染まった水たまりに溺れる羽虫を、そのまま見殺しにすることは出来ない」
再び沈黙が走った。魔女の目はずっとアルトに注がれ、まるで、そこから、アルトのすべてを見透かそうとしているようでもあった。
「いいだろう。一度だけチャンスをやろう」
魔女が言う。
「この魔の森の中心には、飲むものの傷を完全に癒す神水が湧き出ている。
それは飲む者の体を内側から癒し、全ての開いた傷口を徐々に修復する。
その男には一口あれば十分だろう。この森に、おまえが入ることを許そう」
アルトは微笑をもって魔女を見つめる。
「感謝する」
しかし魔女は変わらぬ表情で言い続ける、
「ただし、この森を進むことは、如何なる屈強な偉丈夫とても、一筋縄ではいかぬ。
絡まる蔦、大木の根が作る迷宮、見通しの行かぬ生い茂る葉のベール。
その全てがおまえの行く手を遮るだろう。
おまえがたどりつくことが出来るかは知れぬ。その時はおまえとおまえの友人は死ぬ。
まして、おまえがここに再び帰りつくことができるかも判らぬ。
そして、おまえがこの森で生きようが死のうが、あるものを残してもらう」
「あるものとは?」
とアルトは問う。
「それはおまえが見出すがいい。もし見出せない場合には、
おまえは魔の森を一生出ることは出来ない」
そう言うや否や魔女はふり向きざまに姿を消した。アルトは呆然と立ち尽くし、雨に打たれるままとなった。