(一)

 どれだけ歩いたのか、ここは、自分の見知った世界と様々なものが違う。自分の背丈以上もあろう大きな根をむき出しにした大木、細く何処までも深い河、真っ青だが霞がかかたった空。その空へ螺旋を描きながら伸びる木々の枝。森はまるで細部から全体がうねるように、空へ向かって歪曲している。鳥一羽いない森。雨の音しかしない森。そして、そんな森の向こうに、輝くばかりの麦の畑がぼんやりと光を放っている。だが、自分の道はその麦畑に交わることなく、鬱蒼とした森の小道を進んで行く。
 魔女が進めと行った道、自分が進むと決めた道、その道は既に道であることをやめたように、荒れ果てたまま打ち捨てられている。雨が頬を打つ。足を前に出し深い草をかき分ける。生きていることが夢のようだなどと誰が言ったのだろう。生きることは、こんなにも激しく、つらく、冷たく、自分を傷つける。疲れ果てて、びんやりと横手に広がる黄金の麦畑を見ていると、遠い記憶に誘われる。

 あれはいつのことだったか。ずっと遠い子供のころだ。俺は、新しい燕尾服を来て、城の中庭に降りて、春のぼんやりとした空をぼんやりと見ていた。俺は、この国を治め、守り、老いて、ここで死んで行くのだとぼんやりと思っていた。何かのパーティの前だったのだろう。側近たちが俺を探している。俺はそれがわかっていて、ここで隠れているのだ。中庭の茂みの中、僕はまるで、そこからここへ運ばれたようだ。

 次に思い出す。俺の十五才の春。澄み渡った青空の下、城前の広場で、僕の任命式が行われる。沿岸十六州を治める長官として、同時に他国との交易を一手に引き受ける、渉外大使として、父から宝印を戴いた日……。それは同時に、行く行くはこの国を治める王となることを暗黙のうちに意味するものだった。あの日は僕の運命であり、そしてもっとも輝かしい日でもあった。
 沿岸の貿易は、この国に流入するあらゆる商品の窓口であり、その関税によって、膨大な富を獲得し、国家予算を支える大きな柱となる。また、沿岸からテーベ河を遡って首都ヘテナへ至る河上のルートは、商業の中心と言えるものであった。また、それは同時に敵がもっとも効率よく進軍するルートでもあり、攻防の要でもあった。よってこの職は自ずから、沿岸十六州の軍の統帥となり、その戦力をまとめて、東部沿岸州の防衛の役目を自ずから負うことになる。それゆえに、この大役は、代々王となる者が、その戴冠に先立って任されて来たのだ。俺はこの大役に心躍らされていた。この狭い城から出て、歴史的には、やや本国中央と異なる文化的土壌を持つ土地に憧れてもいたのだ。だが、所詮、それは、一つの城さえろくに出たことのない子供じみた憧憬だった……。

 赴任して三年、ようやく沿岸州全てを調停し、交易の事情も手に取るようにわかって来たとき、その年の春に一通の手紙が王城から届いた。カルテアに対する輸入時の通貨レートの変更だった。つまり、輸入時のみカルテア通貨を安く見積もることで、実質、カルテアからの輸入を、他の諸国に対して優遇することを意味していた。これにアルトは激怒した。
 前々から、王城には、親カルテア派と反カルテア派が対立していた。親カルテア派は、多く、カルテアに大使として在任したことがあり、深くその地に利潤と絡み合うことで、政治的にも経済的にも、力を増して来た議員の勢力だった。逆に、そういった他の諸国との偏った関係を忌避する一派が存在する。これは、主に、貴族や王党派の議員に多く、理念を重んずる一派だった。カルテア派から言わせれば「フィンランディアを一歩も出たことにないおぼっちゃま集団」であって、他国との調整が綺麗事だけでは、済まされないことを知らない連中だった。結局のところ、こういった手紙が自分のところに来る、ということは、王城内の議会で、親カルテア派の勢力が増したことを意味していた。
 だが、それだけなら、アルトが気にかけることもなかっただろう。カルテアの他にも、トラキア、ラドン、ナラム、タイタニアなど、海を隔てて貿易を行う国は、多くあったからだ。親カルテア派の代表とされる人物は、貴族のヴァン・エーデルフェルト。産まれはフィンランディアだったが、育ちからカルテア。公知の事実として、それはレア・アルヴァーンの隠し子であった。風聞が恐れて、王は、カルテアに後見人をつけて隠し育てた。だが、風聞というものは、醜ければ醜いほど、広がるのが早い。幼いアルトが、その見知らぬ子供の名前を聞くのも、そう遠からぬことではなかった。貴族ヴァン・エーデルフェルト、自分が王城から沿岸の長官として派遣されるのと入れ違いのように、王城に戻された男。二度、会う機会があった。一度は、彼が見かけ上の任を解かれて、カルテアから戻されたとき。真っ黒な髪をして、青い目をした、細身の男。そして、自分が任地へ赴く前に開かれたパーティ。近寄って来たのは、彼だった。「ヴァン・エーデルフェルトと申します。以後、お見知りおきを」その言葉には、既に、私生児と嫡子という関係上、言外に多くの意味を持っていた。「知っている。カルテアはどんなところだ」アルトは、挨拶を無視して言い放った。「野蛮で、下品で、不潔なところでございます。フィンランディアに比べれば……」意外な言葉だった。「おまえは自分の育ったところを、そういうふうに言うのか」少し言がたった。「ただ、一ついいところがございまする」とヴァン。「フィンランディアの文化に強く惹かれ、憧れているところです。憧れを通り越して、嫉妬と言った方がいいかもしれませんが。失礼」そう、あの男が、城内で勢力を伸ばしているのだ。ヴァン・エーデルフェルトは外交長官の任に就いていた。この地位は、これまでは、王の命令を実行するだけの形式的な地位であったものの、ヴァンは、王の後ろ盾を利用して大きな権限を振るうようになっていた。そして、自分は、そこから遠く離れて、この沿岸にいる。わかっているとはいえ、面白くない事実だった。そして、さらに、王、つまり自分の父が、ヴァンの言葉に動かされていると想像するだけでも耐え難いことだった。
 アルトは、王の文書に対し、カルテアへの優遇は、他の諸国とのバランスを崩すこと、そして、ヴァン・エーデルフェルトにこれ以上の権限を渡すことは危険であること、そして、今回の指令を実行するには困難があり、従えないことを書簡にして封蝋し特使に渡した。

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