(二)

 王からの返信は、二週間後にやって来た。カルテアとの政策は、議会における政策であること、それが他国全体とのバランスの上の協議であること、が銘記してあった。ヴァンに対する返信は何処にもなかった。これは三つの意味でアルトを傷つけた。若輩とは言え、三年に渡る実務によって、貿易に対する見識を上げて来た自分の意見が無視されたこと、さらに、そういった経験がないヴァンの言葉を聞き入れたであろうこと、そして王から彼個人に対する返信がなかったこと。アルトは一体、王城の政治で何が起きているか知りたかった。王の言葉を直接聞きたかった。だが、貿易の要である、この土地を離れることは今は出来なった。そして、今、王城へ帰ったからと言って、何が出来るでもなかった。
 これだけであったなら、彼が王城に兵を進めるまで、深い怨恨を育むことはなかっただろう。だが、これと時期を同じくして、外交庁tの関係が悪化して行った。王からの命令に従わぬことへの違反、さらに、トラキアに対する貿易制限(トラキアはカルテアと関係を悪化させていた)、彼の業務上の帳簿に対する厳重注意(多くはあてつけられたものだった)、沿岸警備の予算の削減など、矢継ぎ早に、じわじわと彼の権勢を包囲する陣が組まれていた。わかっている。王城では、ヴァンに対して情報が筒抜けなのだ。先の文書もなんらかの情報網を通して、自分がヴァン・エーデルフェルトの権力を制限することを王に忠言したことも知られてしまっているのだ。暗殺、一瞬、アルトの中で、そんな考えが浮かんだ。しかし、次の瞬間には振り切った。何をあせることがある。彼は王の嫡子であって、時期が来れば、王城に戻り、後を継いで王となる身なのだ。だからこそ、それを阻止しようとする勢力があっても不思議ではない。事実、沿岸の領主の任につきながら、暗殺された領主も少なからずおり、また、五十過ぎになるまで、王城に呼び戻されず、戻ったときには、完全に他の王族に政権を握られて、形だけの王となった事例も存在する。アルトはそんな人生はまっぴらだった。彼は深くこの国を愛していた。それは、この沿岸の領地に来て、さまざまな世界と交渉するうちに、世界の広さを知ると同時に、自分の国の美しさと文化の高さを認識し、厳しい現実から守らなければいけないという愛国心を育んだゆえであった。カルテアなどに、この国を渡してはいけない。カルテア出身の私生児にもだ。
 アルトは、沿岸警備の予算の制限、つまり、それは、沿岸の警備軍の増強の予算だったが、その制限を無視して、軍備の増強を図ったのであった。そもそも、仮想敵国である隣国のカルテアと友好関係を築く以上、そういった軍備の増強は必要ないというのが、外交庁の見解であった。しかし、彼は、カルテア人というものを信用できなかった。あさ黒い肌をして背が低く、交渉には長けているが、自分の意見というものを持たず、いつも後方へ持ち帰っては「一致した意見」として返信をよこす、不可思議な意思決定しかできない、そんな民族だと思っていた。それに、カルテアを思うとき、ヴァン・エーデルフェルトと切り離して考えることが出来なかったのだ。
 その年の秋に事態は急速に悪化して行った。彼が軍備を増強すればするほど、外交庁との関係は悪化し、依然、守られない王の指令と合わせて、彼を攻撃する弱点をヴァン・エーデルフェルトに与えることになった。だが、もはや、軍備の増強は、彼自身の存在を、この国で誇示する唯一の手段となって行った。さらに、予算は削減され、身動きのとれなくなったアルトは、トラキアに予算の援助の申請を申し出た。カルテアとの衝突を激化させていたトラキアなら、対カルテアの軍備増強をフィンランディアがしてくれることは、願ってもないことであり、実際、アルトの読みどおり、トラキアは、かなりの額をアルトに提供した。そして、それは暫くして外交長の知るところとなった。この時になって初めて、アルトは自分の側近の中にさえ、外交庁、或いは、ヴァン・エーデルフェルトに通じているものがいることに気付いたのであった。
 フィンランディア、カルテア、トラキアを巡る関係は、フィンランディア国内で、急速に緊張を増して行った。いつ、国内の派閥で戦闘が起こっても不思議ではなかった。ヴァン・エーデルフェルト、アルト・アルヴァーンの対立はもはや知らぬものはない風聞となっていた。不思議なことに、文化的水準と風聞の伝達速度は比例するものなのだ。ただ、アルト・アルヴァーンの人気は沿岸十六州において、圧倒的なものがあった。湾岸の設備を整え、当時、権力を欲しいままにしていた各州の関税人を処罰し、新しく関税機関を各州に設置し、任期を二年と定め、さらに、寂れていた沿岸を貫く沿岸街道の整備工事を行うと同時に、横行していた盗賊から守るために警備隊を組織して治安の維持に当たらせた。首都から遠く離れ、これまで辺境の意識のあった沿岸州は、新しい王の嫡子の着任と政策に歓喜した。各州の新聞を通して、彼の似顔絵が公開され、その若き風貌は、もはや貧しい路地の子供たちにさえ知らぬものはいなくなった。だが、皮肉なことに、沿岸における彼の人気が高まれば高まるほど、中央との緊張は高まって行くのであった。
 事件の発端は、その年の六月に起こった。トラキアの海軍は、フィンランディアの沿岸の港の利用と補給の権利をアルトに要請した。既に、巨額の予算を提供されていたアルトには、これを断る術を知らなかった。そして、見返りのない資金援助などがあるはずもないことを知らぬほどに、自分が未熟であったことを思い知らされた。これに乗じて、外交庁は、切り札として取っておいたアルトがトラキアから多額の金額を受け取り私腹をこらしていたこと、そして、その見返りとして海軍の逗留を認めたことを公知した。同時に、名目上は不法逗留のトラキア軍を処罰するために、実質的にはアルトを捕らえるために、大群を沿岸へ向けて派遣することとなった。王とアルトの間のチャンネルは完全に閉じられていた。これを端緒に、沿岸-トラキアの勢力と、親カルテア-フィンランディアとの戦いの火ぶたが切って落とされた。沿岸のアイドルは、フィンランディアの逆賊となり、沿岸十六州は独立を宣言し、新しくアルト・アルヴァーンを正統な王として宣言した。

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