アルヴィの体が重たくのしかかる。ぬかるみに剣を捨てる。甲冑を捨てる。身を軽くせねば、もう一歩も進むことができない。

 アルトは泥と血で汚れた自分の手を見た。そして、アルヴィの手も見た。アルヴィの手は、アルトの血によって、さらに泥と血で汚れていた。この一年に渡る戦いが、もたらしたものは何であったかを考えるとき、それはもはや疲弊と喪失でしかなかった。トラキアがカルテアに敗北し、併合された半年前に、既に、自分の命数は尽きていたのだ。もはや、遠く沿岸を離れたフィンランディアの首都の近くで、自分には、この小隊一つしか残されていない。フィンランディアの王位継承権は、既に剥奪された。独立国家を宣言した以上、王族であった彼の家族の命でさえ危ない。沿岸州における彼の人気は健在であったとは言え、もはやこれ以上、彼らを戦乱に巻き込む理由もなかった。もう終わりだった。この雨と共に、彼も何処へなりとも流れて行きたかった。だが、彼を信じた部下のために、アルヴィのために、彼はこの雨に争わなければならかった。
 遠くに森の終点が見え始めた。そこから、あふれるように光が湧き出ていた。油断したためだろうか? 彼は、泥に足を取られて、河へ向けて、泥土の中を滑って行った。アルヴィをなんとか、木の根元に引っ掛けるのが限度で、彼は激しい勢いで、川面へ叩きつけられた。流されまいと必死に空をつかんだと同時にもう一度強く頭を打った。水が彼の頭を洗って行く。ゆっくりと河の中へ沈んでいるのだ。必死に、灌木の枝をつかむ。つかむと同時に、体を貫くような衝撃に気を失った。手の感覚は残っていた。だが、アルトは自分の精神が遠く遠くへ運ばれるのを感じた。

 その女は小さな赤子を抱えていた。後ろからは、火の手が追っているようだった。森が燃えているのだ。無我夢中で走っている。一刻も早く隠れて、ひっそりと、三日でも四日でも死んだように身を隠して殺戮から逃れるのだ。そうすれば、再び生きて行くことが出来る。森の入り口では、あの魔女が立っている。
「どうか、どうかこの森に入れてください」
 道は一つしかない。魔女がどかねば、そこを通ることは出来ない。
「いいだろう。入れ。ただし、三日だけだ。それ以上いたら、おまえは戻れなくなる」
「ありがとうございます」
 女は前に倒れるようにして、森の中へ入って行く。女の手は血で汚れている。さっき、油断した敵兵士を近くにあった角材で殴って逃げて来たのだ。我が子を助けるためとは言え、人を殺めたかもしれない。そんなことを確認する余裕さえなかったのだ。自分はこの罪を背負って生きて行かなければならないが、どうかこの子だけは、平和で幸せな人生を送って欲しい…。だが、どうしてこんなことになってしまったのか…。平和に暮らして来たのに、必死に逃げているうちに、人を傷つけて、あああ、嫌だ。もっと、平和な時代に生まれていれば、自分は、あたりまえに暮らすことができたのに…。血で汚れた手で赤子を抱きしめながら、女は遠い未来に思いを馳せた。そして、そのまま意識を失った。

 次にまた頭の中を引っ張られるような感覚に襲われる。
 一人の兵士が剣を持っている。後ろからは、兵長の高い声がする。「殺せ、殺せ」という声がする。
 向こうの敵軍の兵士の長も「殺せ、殺せ」と言っている。
 その間に立つ兵士たちは、無我夢中にお互いに剣を振る。相手の兵士の腕や首を切り落とす。地獄だ。
 そして、自分はこの地獄の一部なのだ。
 ついこの前までは、山間の田舎の村で、牧羊をして暮らしていた。
 国が兵士を三名を出せという命令に、彼は志願した。年寄りや、友人を出すわけには行かなかった。
 そして、今、年寄りや自分と同じぐらいの年の兵士を殺している……。これは一体何なのか……。この世界は一体何なのか?
 油断した! 敵の切っ先が彼の腕を切った。剣を落とす。拾おうとした向こうで、自軍の兵長が鉄砲で殺されているのが見えた。
 もう逃げるしかない。少しでも身を隠せるところを。鬱蒼とした森が見える。あそこに逃げ込めばひょっとして助かるかもしれない。
 走る、走る。全速力で走る。見つかれば死ぬ。
 後ろで、敵の甲高い声がする。気付かれたのだ。あと少し、あと少し。高い崖を登ろうとする。
 伸びている蔦をつかむ。それに体の体重を預けた瞬間、彼の胸は槍で貫かれた。激痛が走る。
 そしてまた、また頭の中を引っ張られるような感覚に支配された。
 
 空が、高い空が見えている。どうやら、森の中にいるようだ。虐殺から逃れて少年はもう何日も何も食べていない。
 しかも、物凄くお腹が痛い。やっとのことで、この森にたどりついたものの、もう身動きがとれずに、
 長い間、横たわっている。空を遮る女の姿を見えた。
 「おまえは、誰だ」と少年。
 「魔女よ」女は言う。
 「僕は死ぬのか?」
 「ええ」
 「どうして?」
 「病気だからよ」
 魔女は淡々と話す。
 「どうして死ななければならないんだ。」
 「知らないわ」
 激痛が走る。意識が遠のく。何もわからない、理由もなく、死んで行く。それは、こんなにも不安で、辛くて、重たくて、孤独だ……。
 
 今度は、アルトの感覚がはっきりと腕に戻って来る。
 ゆっくりと目を開ける。暗い。あたりは夜になっている。
 (今のは、夢?)
 しばし、呆然とする。すると、冷え切った体の感覚が戻って来る。
 (とりあえず、ここから出なければ……)
 つかんでいた根を支点に、体を水の中から持ち上げる。
 どれぐらい眠ったのだろう? 見上げると木の根元にアルヴィが引っ掛かている。アルトは、アルヴィを抱えなおし、土手を登り、もとの道を辿り始めた。(よかった、まだ、息がある)まだ希望を捨てては駄目だ。歩く、歩き続ける。一歩一歩、ぬかるみの中をしっかりと歩いて行く。人を背負うとは、こういうことなのだ。確かに重さを感じて、命を運んで行くことなんだ。今更ながら思う。それが、王である者の資格であったかもしれない……。それにしても、さっきの夢は一体なんだったのか。夢にしては、あまりに現実的で、この森で起こった出来事のようだった。今の時代のものではなさそうだ。この森もまた、夜のうちに夢を見ているというのか……。
 森の出口が近付くと、夜だというのに、やはり光があふれ出していた。一歩一歩近付く事に、真っ暗な森は、その光にますます強く照らし出されていた。出口を抜けた。そこは、木々で囲われた円形の草原になっていた。広場には、木が一本もなく、天上は抜けたような星空が広がっていた。森をくり抜いたような草原の真ん中に、小さく輝く泉があった。その光が、あたりを優しく照らしていた。そして、そのほとりに、あの魔女が立っていた。

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