魔女は言った。
「その男をこの泉に半身だけ漬かすがいい。そして、その者の口へこの泉の水を飲ませてやれ」
 その魔女の言葉は、とても静かで穏やかだった。あの森の入り口で言ったのとは別に、優しさに満ちた言い方だった。或いは、あの口ぶりは、侵入者を警戒させるための、演技だったのかもしれぬ。だとしたら、自分は、ある程度は許された客人なのだ。
「半刻ほど待て」
 そういうと魔女は、いくつかの結晶を泉に投げ入れた。一つ一つの結晶が水の中で弾けては消えて行った。そして、魔女はおもむろに話し始めた。

「我々は未来から来た。未来においても人は人と争い合うことをやめず、
 戦いはますます激しく、同時に単純なものになって行った。
 どんなに戦禍が大きくなっても、もう誰も止めることができなかった。
 お互いの国が、お互いの国を牽制するために、ますます強い兵器が作られ、
 ある国では、一瞬にしてたくさんの人がいなくなってしまった。
 巨大な兵器も小型化され、一人が何万という人間を殺せる時代になった。
 溢れ出す兵器の力を誰も止めることは出来なかった。
 それぞれの兵器の最初の過ちは決定的な過ちとなり、
 何が起こっているのかを理解する前に、
 次の新しい過ちが行われた。その報復の連鎖は止むことはなかった。
 もう誰が、何をコントロールしているかわからなくなった」

「ある時、一人の学者が、その時代に、まるで紙くずのように消えて行く、たくさんの人々の心を残すために、
 この森を創った。
 この森にあるものは何一つ、自然なものではない。
 この葉、この土、この空さえも、全て、当時の科学技術の粋を使って作られた人工物なのだ。
 そして、近付くものの記憶と心を記録する。
 葉の一枚一枚、羽虫の一匹に至るまで、その一つ一つが記憶領域を持っている。
 そして、何百万、何億と死んで行った人々の思いを記憶している。
 たとえば、さっき、おまえが助けてくれた一匹の虫、あれにも、何十万人という人間の記憶が記録されている。 
 そして、もう、全世界が滅びようという時に、この森は旅立ったのだ。過去へ向けて。
 世界の起源へ向けて。おまえもさっき、その記憶の一つを見ただろう」

「この森は、こうやって、幾つものの戦争で犠牲になったものの記憶を集めて、
 過去へ過去へ遡っているのだ。
 おまえがさっき河へ滑り落ちたときに、おまえの記憶もまたこの森に記憶された。
 それは、また、さらなる過去でこの森に迷い込んだものに渡されることになる。
 これ以上、愚か者を出さないように……」

 魔女は怒るでもなく諭すでもなく、まっすぐにアルトを見つめていた。それは、まるでアルトに何かを試しているかのようだった。アルトは深々と頭を垂れた。 
 この森の抱え込んだ記憶の一端を垣間見たアルトには、この森全体が囲っている、幾万、幾億という記憶の重さに耐えられそうになかった。
 アルトはしばらくの間、一掴みの土をつかんだまま、その重さに必死に耐えていた。深い罪の意識がアルトを支配した。自分はそんな苦しむを生んだ側の人間なのだ……。やがて、その深い罪の意識は、アルトから自分自身への妄執の心の壁を取り払って行った。自分が追い詰められたという思いは消え、敵も味方も超えて、この国全体、自分が生まれ、背負おうとしていたこの国全体の心が、意味が、姿が、さあと、彼の心に雪崩れ込んで来た。深い罪が、この国で、一人一人苦しんでいる人の心が感じられた。苦しかったのは自分だけではない。この国のみんなが苦しんでいるのだ。自分が苦しめて来たのだ。自分が苦しめているのだ。涙があふれた。喉の奥が苦しかった。
 魔女はずっとアルトを見つめていた。厳しく、優しく、その瞳は、今度はアルトに立ち上がるように訴えかけているように感じられた。

 アルトは話し始めた。
「わたしは、わたしは悪い王でした。民を省みず、己の私怨に国を巻き込んでしまいました。
 そして、わたし自身が引き起こしたこの戦争も、もはや私自身で収集できないでいます。
 わたしは、いいえ、わたしたちは、いつも、自分では治めることもできない化け物を、 
 呼び出しては、自分たちを苦しめるのです。
 ここを出てわたしは、外で待ち受ける敵によって、すぐに殺されることでしょう。
 この戦乱もそうやって収まることでしょう。
 愚かな王、いや、愚かな人間がいたことも、確かにここに刻まれました。
 こんな私怨だけの争いは二度とくり返されてはならない。
 私は、己の私怨に多くの人を巻き込んでしまいました。
 もはや、償い切れぬほどに。
 もし、もう一度機会があったなら、私は全霊をもって、民に尽くしたい。
 共に苦しみ、共に歓びを分かち合いたい。本来はそうできたはずなのに、それももう適いませぬ。
 でも、死ぬ前に、もとの自分に戻れました。もう私怨も、恨みもありません」

 魔女はまっすぐに広場の出口を指した。出て行けというのだ。
 友人を抱いてアルトは。まっすぐと森の出口へ向かって行った。アルヴィの怪我は、すっかりよくなっているようだった。傷口の血も既に洗い流されていた。
 アルトは入り口で振り向いて「ありがとう」と魔女に言った。魔女は表情一つ動かさなかった。

 帰りの道は優しかった。下りの道であったし、アルヴィは、寝息を立てているようだが、以前よりずっと軽く感じられた。
 遠くに森の入り口が見えて来た。三人の部下たちも木を背にして寝入っているようだ。
 まだ、雨が降っている。以前と変らぬ、激しい雨だ。
「さあ、行こう」
 仲間を起こす。わかっている。少なくとも自分は生き延びることはできないだろう。だが残った部下は助けねばならない。
 いまやアルトは、この国全体を全霊をもて感じることが出来た。この土地の広がり、この土地に吹く風、生きる人々、全ての森の草木の一本、いくつもの河の流れ、自分が見て来たにもかかわらず見過ごして来たたくさんのものを、自分の中に取り込むことが出来た。アルトは初めて、この国と一体となった。初めからこうすればよかったのだ。たくさんの土地をめぐり、話し、感じ、その上で、この国のために出来ることをすればよかったのだ。解き放たれたように、アルトは胸を張って森を出た。

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