甘い血 (3)

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 姉様に初めて会ったのは、夜の森の中だった。
 その時の私には思いもよらないことだったけれど、その日に私は本当の母親に捨てられた。私は寒くて心細くて、母の温もりが恋しくて、いつまでもいつまでも泣き喚いていた。ようやく泣き止んだのは涙が涸れたからではなく、夜の森を抜ける風音が止んでいることに気づいたからだった。
 まだほんの子供だったはずなのに、その時の光景は鮮明に覚えている。一切の音が消えた森の中、夜闇を切り取ったような人影が私の前に進み出てきた。手と顔だけが純白で、そのとき私は女神様が地上に降りて来たのかと思った。
 それが私と姉様との出会い。姉様にとっては、何十回と繰り返されてきたありふれた出会い。でも、私にとっては生涯に一度きりの、運命の出会い。

 * * *

 とりとめも無く考えながら森の中を歩いて、気づいた時には私達の水源の泉に辿り着いていた。いつの間にか、涙が零れている。今の自分は、きっとひどい顔をしてるに違いない。
 妹達はあんなに喜んでくれているのに、私は喜べない。ここを出なければいけない日が来るのが、怖い。
 妹達と離れるのも、もちろん寂しい。もう顔も覚えていない本当の両親よりもずっとずっと大切な、かけがえの無い私の家族だ。でも、姉妹として一緒に育って来ても、いつか別々の道を歩いていくことになると理解していた。
 姉様についてだって同じはず。ずっと一緒にはいられない。私には私の、姉様には姉様の人生がある、そう自分を納得させようとしてきた。
 でも、駄目。姉様がいない毎日だけは、絶対に耐えられない。
 何ヶ月か前に、ダシアに相談したことがある。姉様と離れるのが特別に寂しいと。彼女は私の妹だけれど、私よりもずっとしっかりしている。ダシアの分析では、私は姉様に母親を見ているという。姉であり、師であり、友であり、母親であると。だから特別に大切なのだと。
 確かに彼女が正しいのかもしれない、でも私は……。
「やはりここに来ていたのね、オリアナ」
 振り返ると、今一番ここに居て欲しく無い人が、でも一番ここに居て欲しい人が、そこにいた。
「姉様……」
 そっと近づいてくると、姉様は漆黒の長衣を手で抑えながら私の隣の草むらに腰を下ろした。
「ここを出て行く日が、怖い?」
 姉様の黒い瞳に見つめられて、私は同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「姉様……」
 それを肯定と受け取ったキアラ姉様は、やさしく私の腰に手を回すと、自分の肩に私をもたれかからせた。姉様の髪の香りが、私の鼻腔をくすぐる。
「私はあなたたちの姉であると同時に、母でもあろうと努めてきたわ。だから、ひときわ辛いのかもしれないわね。親と離れるのは誰だって辛い。……けれど、雛鳥はいつか巣立って、自分ひとりで生きていけるようになる」
 姉様の言葉が私の心に染み透る。
「ダシアに相談したときにも、同じようなことを言われました。あの子は、賢いから……」
「でも、納得できない?」
 私が頷くと、姉様は私の頬にそっと手を触れて、瞳を覗き込んだ。
「誰にとっても、別れは辛いわ。あなたの前に私の元を去っていった妹達も、そうだった」
「辛いです、とっても。姉様は世界でただ一人だけの私の姉様だから。姉で、師で、友で、母で、そして……」
 私の言葉は、でも、姉様に遮られた。
「あなたに必要なのは言葉では無く、自分の心を納得させることだわ。あと、一ヶ月。心を落ち着けて、ゆっくりと考えてみなさい」
 姉様はそっと私の体を離すと、立ち上がって長衣の裾から草を払った。
「姉様……」
「顔を洗ってから、戻ってきなさい。妹達が心配しているわ」
 そう言うと、姉様は戻っていってしまった。私に言葉の続きを言わせずに。


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