甘い血 (5)

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 あの泉は、私にとっては特別な場所だった。小さい頃は、こぽこぽと音を立てて水が湧き出てくるのがどうにも不思議で、ずっと眺めていた。少し成長してからは、夕日を浴びて煌く水面が綺麗で、夕食のために水を汲みに来るのが全然苦にならなかった。でも、それまでと比べようもなく特別な場所になったのは3年前。
 そのとき私は酷い熱病に罹ってしまって、姉様は泉の傍に天幕を作って私をそこに運んだ。何日も何日も、病気を移さぬように妹たちを近付けないようにして、姉様はずっと私を看病してくれた。熱でうなされ、夢と現の区別もつかない状態だったけれど、2つのことだけは記憶に残っている。ひんやりと冷たい姉様の手と、そして……。口移しで薬を飲ませてくれた、姉様の唇。もちろん姉様に他意はなかったのだろうけれど、あの時のことを思うと、たまらなく胸が締め付けられる。

 * * *

 その日の夜に、私は姉様を泉のほとりに呼び出した。大事な話があるから、みんなが寝静まった後に、一人で来て欲しいと。
 もちろん、姉様は来てくれた。鬱蒼と茂る木々の合間からは僅かに星の光が届くだけで、いつもの漆黒の長衣は夜闇に沈み、純白の肌だけが浮き上がって見える。その凛とした顔は、私が幼かった頃から全く変わっていない。その顔に心を奪われたのは、いつからだったろうか。生まれて初めての恋を知ったのは、いつだったろうか。
「私に話があるそうね、オリアナ」
 こんな形で呼び出したのに、戸惑いも疑問もなく、姉様はただ私を見つめて言葉を待った。私はそのとき、初めて思い至った。姉様が今まで何人、何十人も送り出してきた妹達のなかに、私と同じく、姉様に特別な想いを抱いた少女がいなかった筈はない。私の前に旅立っていった中の何人が、こうして姉様を呼び出して、想いを伝えたのだろうか。
 私は、今までの人生でもっとも重い言葉を伝えようとしている。姉様に拒否されたら、きっと私は生きていけない。私の言葉を聞いても姉様が顔色一つ変えなかったら、きっと私は二度と起き上がれない。でもきっとそれは、姉様が幾度となく聞いてきた言葉。

 でも、私はこの言葉を伝えずにはいられない。
「姉様、私は姉様が好き」
 喉はからからに渇いていたけれど、でも私の言葉は滑らかに口から出てきた。
「ダシアよりもターラよりもミルナよりも、今まで出会った誰よりも、これから出会う誰よりも、姉様のことを愛してる。姉様に、恋をしてしまったの」
 ただ姉様の顔だけを見つめて、そっと一歩近づいた。
「姉様がいれば他に何もいらない。姉様のためなら、何だってできる」
 姉様の黒い瞳が、私の心を吸い込む。
「だから、教えて欲しいの。姉様、姉様は私のことを、どう思っているの?」
 たぶんそれはほんの一瞬のことだったのだろうけれど、でも私にとっては永遠も同じだった。心臓は早鐘を打ち、そのまま破裂してしまうかとすら思った。だから姉様が私に近づいてその黒衣に私を包み込んだとき、私の意識は一瞬遠のいた。姉様の香りが、私を満たす。けれど、続く姉様の言葉は私の心を傷つけるものだった。
「オリアナ、私もあなたのことが好きよ。でも、きっとあなたの気持ちは恋とは違う。あなたはこの森の中の狭い世界しか知らない。物心ついてから、男の子に会ったことすらない。私は姉で、あなたは私の大切な妹、でも……」
「でも、そんなの関係ないっ!」
 今まで私が姉様に対して声を荒げたことなんて、姉様に対して口答えをしたことなんてなかった。でも、私には今しかない。この晩しか、姉様に想いを伝える機会はない。
「朝も昼も夜も、姉様のことしか考えられない。ただ姉様だけを見ていたいの。ただ姉様だけに見て欲しいの。姉様の声が聞きたい、姉様の腕に包まれたい、姉様の瞳に吸い込まれたい、姉様の心を私のものにしたい! これが恋じゃないんだったら、私はもう一生恋なんてしないっ!」
「オリアナ……」
 姉様の瞳に、初めて戸惑いの色が混じった。
「だから、姉様。この気持ちが恋じゃないなんて、そんなこと言わないで。姉様が私のことをどう思っても構わない。でも、私のこの気持ちは、本当だから」
 そう、私の気持ちは本当。今までずっと悩んできたけれど、でも、今日姉様に想いを告げて確信できた。
「でも、オリアナ、あなたは私のことを知らない。あなたが知っている私は、十年分の私。私はその何十倍もの時間を生きてきたわ。そうしてこれからも生き続ける」
 悲しみが、姉様の瞳を満たす。今まで見せたことのない、姉様の色。
「私は魔女。私は人間じゃない。あなたが歳を重ねても、私は変わらない。何十年か後に、あなたが死神の前に屈するときにも、私は今の姿のままでいるでしょう。そんな化け物を、あなたは本当に好きでいられるの? 自分の若さが失われていくときに、自分の死が近づいてくるときに、それでも私に嫉妬せずにいられるの?」
 凛とした姉様の顔が、歪んだ。水晶の涙が、白い頬を伝っていた。
「何人もの妹達が、私に愛を告白したわ。でもみんな、いつかは私の下を去っていく。私が、化け物だから」
「そんなこと、ないっ!」
 今度は私が、姉様を抱きしめる。姉様の慟哭を受け止める。
「私の気持ちは変わらない。ずっと、ずっと姉様のことを愛してる。死ぬまで姉様のことを、愛し続ける」
「だったら……」

 姉様の声の調子が、変わった。その冷たさに、私は凍りつく。
「だったら、死なないで。永遠に生きて」
 爛々と蒼く輝く瞳に、射抜かれた。
「私の血を啜れば、あなたも私と同じになる。私の血に宿る力を吸えば、あなたは変わる。私と同じ、化け物に。そうして、私と共に永遠に生きて。私のことを、本当に愛しているのなら」
 姉様は一歩下がると、その右手で白銀を煌かせた。一瞬の後、姉様の左手が、白い肌が、赤く染まった。
「私以外何もいらないのなら、耐えられるはず。無限の年月を経て、私とあなた、二人だけを除いて、全ての者が死んでいく。私達にだけは、死の安らぎは訪れない」
 その口から溢れ出るのは、暗く冷たい言葉だった。姉様の心の奥底から出てくる、言葉。私は、鮮血と言葉とに呪縛されて、動けなかった。
「私だけがあなたを見ていればいいのなら、耐えられるはず。あなたの友も、本当の親兄弟も、今の妹達も、あなたの前で儚く死んでいく。何度新しい友人を得ても、いずれは死んでいく。あなたを見続けることができるのは、私だけ」
 姉様は、この暗い思いをずっと抱えて生きてきたのだろうか。無限の時間を、ずっと。
「……でも、いいの。今まで私に愛を告げた子達も、私の若さに嫉妬した子達も、永遠の命を羨んだ子達も、結局みんな拒否したから。化け物の仲間になることを。あなたも、私のことは忘れなさい。森の外の世界に出て、人間としての人生を全うしなさい。きっとそれが、一番幸せだから」
 姉様の言葉に優しさが戻って、そして呪縛は解けた。
「オリアナ、私もあなたのことが好きよ。だから、幸せになって欲しいの。今までと同じ失敗は、したくない」
 そう言って、姉様は血に染まった左手を長衣の袖の下に隠した。今までその気持ちを隠してきたように。涙も、傷も、黒衣の下に。そうして、背を向けようとした。
「姉様、待って!」
 私が全力で姉様に抱きつくことは、予想していなかったのだと思う。私達は草地に倒れこんで、そうして姉様の左手は再び星の光に晒される。
「私、なるよ。姉様と一緒に。姉様を一人ぼっちになんてさせない。永遠に、一緒にいてあげる」
 両手で姉様の腕を抱くと、指先にそっと口付けた。それは不思議な、でも甘い味だった。夢中で血を啜ると、どんどん熱くなって、何かが体の中で暴れているような感じがした。
「オリアナ、やめなさい! オリアナ!」
 取り乱した姉様の声を聞いて、私はちょっとした優越感を感じてしまった。だって、姉様がこんなに慌てるのを見るのは、初めてだったから。
「いいの、姉様。私、決めたんだから」
 姉様の血が、私の体をゆっくりと変質させていくのが分かる。姉様と同じ、体に。きっともう、充分な血が体内に入ったのだ。
 だから私は、姉様の指を離すと、代わりに姉様の唇を塞いだ。その唇は、やっぱり不思議な甘い味がした。


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