腐葉土の姫 (3)

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 翌日早朝にハリスは出発し、森へと至る道を歩いていた。見る限り、道は森の中までは続いておらず、手前で行き止まりとなっている。この森が宗教的な意味を持つのであれば、どこか他に道があるのかもしれない……。だが、それを探すよりは、まずは様子だけ見てみよう、と、ハリスは鉈を振るって森へと入って行った。
 当面のハリスの目標は、この妖気の出元を突き止めることであった。その目標は、森に入ってすぐに明らかになった。まず、妖気そのものは森全体から満遍なく発せられていた。そして、その主は、森の樹々、植物たちであった。山歩きの経験が乏しいハリスであったが、この森の植物に、他にはない奇妙な形のものが多いことにはすぐに気づいた。それは図鑑で見るような南国の植物、もっと言えば、子供の絵本に描かれた荒唐無稽な樹々に似ていた。
「今まで見てきたものとは、種類の違う怪異か……」
 例えば「呪われた木」ならば見たことがある。その「呪い」の源泉は、その木の元で倒れた人間のものであった。だが、この森は……ここには人間が絡んでいない。この森は人の意志や情念を預かり知らぬ、まさに異界そのものであった。
 森は中心に近づくにつれ、その密度を増してゆく。これから日が昇るというのに、周囲はだんだんと暗くなってきた。
「潮時か」
 これ以上進むのは難しい、と判断した。収穫は十分にあった。「この森には関わらない方がいい」おそらく、村人も同じ結論に達していたのであろう。
 ハリスは来た道を引き返すことにした。未開の森である、自分が鉈で切り開いてきた跡をたどれば迷うことはない。だが、しばらく歩いたハリスは異臭に気づく。この空気を吸うのは確実にまずい、本能的に感じたハリスは、全力で駆けだした。しかし、異臭はいなくなってくれない、逆に濃度を増してすらいる。「まさか!」ハリスは歩いてきた道から九十度横に曲がって、樹々の隙間に無理矢理体を押し込んだ。息を止めたまま走り、限界に達すると、そのまま倒れるように体を投げ出した。幸い、異臭からは逃げられたようだった。
 一時間もそうしていただろうか、ある程度回復はしたが、意識にかかったもやのようなものが、まだ晴れない。恐らくは、自分が鉈で切った植物の切り口からあのガスが出たのだろう、ハリスはそう推測した。それを確かめるために来た道を引き返すのは危険すぎる。だが、それでは村に帰るにはどのルートを通ればいいのか。助けは……呼べるはずもない。絶望しそうになる心を必死に抑えた。
「妖気が薄くなる方へ進めば外には出られるはずだ……」
 磁石とカンを頼りに、ハリスは歩き続けた。鉈は最小限に使用し、所々に目印をつけて歩いた。静かすぎるこの森の中では、全てがハリスを嘲笑うかのようだった。何度目かの目印をつけた後、ハリスは再びあの異臭を感じた。最初に通ってきた道か?あるいは、自分は同じ場所をくるくると回っていただけなのか。口と鼻を押さえて走り出したが、もはや方角に気を配る余裕は残っていなかった。
 腰を落ち着け、呼吸を整える。ガスの残り香が鼻の奥に残っていて気持ち悪い。脚に力が入らない……暗い……。
 気がつけば、日が暮れようとしているようだった。元々薄暗かった森が一層暗くなり、気温も下がってきている。今夜はここで夜を明かすしかなさそうだ。それが安全である保証は全くないが、暗中を動き回るよりはましであろう。
 わずかながら食料は持ってきていた。後は暖を取れれば……。ハリスは火をおこすための薪を集めた。また有毒なガスが出たら、という不安はあったが無事のようである。ハリスは、緊張を解きほぐしつつ翌日に備えて休息を取った。

 ヨートスは信仰に篤く人徳のある理想的な神官と言えた。その人望からすれば、本来は教会中央に入り、より重要な役職を与えられてもおかしくはなかった。だが、ヨートスの不幸は、神職にして強い霊感を持ってしまったことにあった。教会中央部は、彼を神官よりは「兵器」と見なしたのである。 ヨートスには王都内で起こる怪現象の調査や、異教の「神」の撃退が命じられた。
 ヨートスにとっては、自分の職務はジーラ教の布教以外の何者でもなかった。悪霊を祓うのも、怪異を退けるのも
布教のためであり、そして、何より、布教を通じて人々を救うためであった。だが、教会は、既にジーラ教だけのために存在する機関ではなくなっていた。教会は、「ジーラ教圏」の政治、産業をも担う超国家規模の勢力へと変質していた。
 ヨートスは、一教会の神官の地位のまま、その生涯を閉じた。
 ハリスは、ヨートスの後継として、引き続き対怪異の「兵器」役を任ぜられた。だが、ヨートスの死とともにハリスからは「何か」が失われていた。
 ハリスにはヨートスが幸福だったとは思えない、では、どうなれば幸福だったと思えるのか。教会中央に入って枢機卿にでもなっていればよかったのか、それも否である。……いや、ヨートスが幸福だったかどうかが問題ではない。ヨートスを失い、自分自身の未来の姿が見えなくなった、それだけである。
 ハリスは思い出す。
「異教の「神」は何人も見てきました。では、私はいつかジーラ教の神を見ることはできるのでしょうか?」
 ヨートスにそう尋ねると、彼は言った。
「神は既にこの世のあまねく所にいらっしゃる。後は、お前がそれに気づくかどうか。それだけだよ」
 ヨートスの秘蔵っ子であったはずのハリスは、評判倒れの形で王都を追いやられた。それは、ハリスに取っても望むところの処遇であった。


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